かかりつけ医からの転院からの転院
2020年9月1日午前10時。
かかりつけの産婦人科にて紹介状を受け取り、市内で一番大きな病院へ
前日までなんの問題もないと思い込んでいた娘。この時34週。
「前回の検診から大きくなっていません、帝王切開での出産になるとおもいます」
この時、娘の推定体重は1586g。前回から72gしか大きくなっていなかった。
たしかに、いつも「小さめですね」とは言われていた。
でもそのあとは「とっても元気です」と言われ、安心していた。
私自身も小さく生まれて、ずっと小柄だからそのせいだろうな。と軽く考えていた。
病院に着いてもまだ、何かの間違いであってほしいと願った。
里帰りをすでにしていた私は、母に送ってもらった。
とても心細かったが、コロナ禍を考慮し母には一度帰ってもらった。
診察前に測った血圧は140越え。
普段低血圧の私にとっては驚く数字だった。
診察室に呼ばれると、優しそうな先生と看護師さんがいて少しほっとしたのを覚えている。
横になるように言われ、エコー検査が始まる。
長い長い沈黙に押しつぶされそうになりながらも、ついさっきまでびくともしなかった娘が
元気にぽこぽことお腹を蹴っていたので「大丈夫だよー」って言ってるのかな。なんて考えていた。
ようやく先生が口を開き、発した言葉は今でも鮮明に覚えている。
「おかあさん、この子はね、ただ小さいだけではありません」
「お口が裂けていて、心臓も弱く、たくさんの問題を抱えています」
ここの病院より設備の整った大学病院で出してあげた方が良いとのことだった。
口が裂けていることも、この日に初めて知った。
これは私の妄想に過ぎないが、娘は必死に隠していたのだと思う。
毎回エコー検査では背中を向けていて、両手で口元を隠していた。
性別も8カ月検診までわからなかった。
先生は毎回顔を見ようとしてくれていたけど見られなかった。
普段から心配性のわたしは、いつもいろんな妄想をする。
だけど今回のことは本当に想定外で、まさか自分の子が…という想いでいっぱいだった。
3年間赤ちゃんが欲しくてもできなかった。
辛いこともあった。
ようやく待ちに待った娘との対面がすぐそこまできている。
なんて残酷なんだろうと思った。
仰向けになりながら先生の話を聞く。涙があふれて天井がゆがんで見える。
黙って聞いているのが精いっぱいだった。
たくさんの想いが溢れる。
夫とお腹にいる娘に話しかけていたこと。
母が嬉しそうに娘の服を選んでくれたこと。
父が嬉しそうに私のお腹をみつめていたこと。
義母がエコー写真を愛おしそうに見てくれていたこと。
義父が娘のためにチャイルドシートを購入しようとしてくれたこと。
泣かないなんて無理だった。
私が泣くことによってお腹が揺れる。
エコー検査が続行不可能になり、先生はこの辺にしておきましょうかと器具を置く。
看護師さんは静かに背中をさすってくれた。
まだ信じられない。
“大学病院で診てもらったら大丈夫でした。”ってなるんでしょ。
ちょっと大げさに言ってるだけでしょ。
赤ちゃん本当は元気でしょ。
現実を受け止めるなんて無理だった。
待望の第一子。両家とも初孫。
これから待ち受ける現実は想像もつかなかった。
特別に許可をもらって、NSTをしながら家族に連絡をすることに。
夫に状況を連絡して、コロナ禍だからどこまで入れるか分からないと伝える。
母にも病院を移ることだけを伝えたような気がする。
その後、転院先の大学病院の指示で救急車で行くことに。
最初は母の車で行く予定だったのに、救急車で来るように言うなんて…
そんなに大変な状況なんだな…と、ここでようやく自分の置かれた状況を認識。
1時間ほど距離のある病院だったのでトイレに行かせてもらい、母に連絡。
救急車で行くことになった。荷物は積んでいけないから、持ってきてほしいと。
よく道に迷う母。「気をつけて、焦らないでゆっくり来てね」
昨日まで問題ないと思っていた自分の娘と孫がこんなことになってパニックにならないはずがない。
そんな中、運転させるのはとても心配だった。母と私は似た者同士。
お互いがとにかく取り乱さないように、冷静を装うのに必死だったと思う。
救急車に1時間も乗っていくなんてだれが想像できただろう。
看護師さんはあたたかく見送ってくれ、先生は救急車に一緒に乗ってくれた。
救急隊員さん2人と先生の3人が座っている前で横たわっている私。
これで一時間…正直きついな…とおもっていたが、
先生が気さくな方で隊員さんとお話ししてくれていたので、あまり視線を感じずにいられた。
到着直前、先生が私に「向こうの先生に引き継ぎしたら僕は帰るからね」と。
ほんの少ししか関わっていない先生だけど、知らないところに一人取り残される気がしてとても不安だった。
到着後、慌ただしく運ばれていく私。
不安を共有する人もいなくて精神的には限界だった。
状況を理解して整理する時間もない。
泣いている暇さえなかった。
大学病院にて
大学病院に到着後、すぐに診察室に運ばれた。
そこには、たくさんの先生と看護師さん。人数の多さに圧倒された。
コロナ禍でずっと密を避けていたわたしにとっては、それだけで少し怖かった。
たくさんの人たちがいるなかで、一人仰向けになっている。
エコーをしてもらっている間も先生たちが何やら話し合っている。
昨日まで元気だと思い込んでいた娘は、どうなってしまうのだろう。
手術もあるだろうし、コロナもあるからしばらくはみんなに会ってもらえないな。
娘を家に連れて帰れるのはいつになるだろうと考えていた。
だけど、そのような考えでさえ甘かったのだと後で気づかされることになる。
帝王切開になることは前日から覚悟していたつもりだった。
妊娠したら、誰だってそうなる可能性はある。
でも、どこか他人ごとで私には関係ないと思っていた。
あまりにも突然で、娘がたくさんのことを抱えているということを告げられ、
まだその現実を受け入れられない私に、帝王切開手術の同意書を渡す先生。
診察台の上で同意書にサインしている最中にも看護師さんは私の靴下を脱がせたりして手術の準備を進める。
どのタイミングで手術着に着替えたのかも覚えていないくらい、目まぐるしく事が進んでいった。
全身麻酔のため赤ちゃんにすぐには会えないことを聞かされたのち、車いすに乗せられて手術室に運ばれる。
たくさんの人がいる中で、ひとり手術台にのる。
覚悟も何もない。
ただ、のらなければ娘が危ないのだ。
のるしかない。
すぐに麻酔の処置が行われ、私は意識を失う。
次に目が覚めた時には、娘がお腹からいなくなっていて
先生に名前を呼ばれて目が覚めた瞬間、涙が溢れた。
知らない人の前であんなに号泣したのは初めてだったと思う。
麻酔科の先生は「痛いみたいだから、薬を」と言っていたが
そうじゃない。痛みなんてこれっぽっちも感じなかった。
ひとり自宅から離れたところへ送り込まれて不安を共有する人もおらず、
そのままひとりで帝王切開に挑んだことによる安堵でもない、感動でもない、
でもなぜか号泣している。初めての感情だった。
赤ちゃんについて話してくれる人は、いなかった。
「元気な女の子ですよ」と一言聞きたかったが、
元気ではない、ということだろう。と察した。
エレベーターに乗って到着したところには、母と夫がいた。
夫は聞いたこともないような不安そうな声で私の名前を呼ぶ。
母もありったけの言葉を掛けてくれた。
もう、うなずくしかなかった。
そのあと、個室は空いていなかったため大部屋へ。
しばらくはぼーっとしていたが、夫が特別に少しだけ入れた。
飲み物を届けてくれて少し話したけれど、あまり覚えていない。
看護師さんは手厚く看護をしてくれて、やさしく声を掛けてくれた。
「よくがんばられましたね。尊敬します。」と。
うなずくことしかできなかったけど、ありがたかった。
何時かもわからない。気づけば消灯されていて、先生が入ってきた。
たくさんメモに書かれていく単語。
“先天性の病気” “横隔膜ヘルニア” “口蓋裂” “多指症” “重症” “早産” “低体重” “出血” “脳出血”
...“染色体の異常”
ここで初めてこの言葉を聞いた。
娘がたくさん抱えていたのは、これが原因かもしれない。ということ。
出産する前の一番大きな問題は横隔膜ヘルニアだった。
だけど、生まれてきた娘は脳出血を起こしており、今晩が山だということも聞かされた。
もし、生きていてくれたら早急に脳出血の手術を行わなければいけない。
問題は山積み。私はキャパオーバー。静かに話を聞くことしかできなかった。
でも、心のどこかで娘は大丈夫、生きるんだと信じていて一緒に家に帰れる日を想像してる自分もいた。
深夜にNICUへストレッチャーで連れて行ってもらった。
明日には手術をして顔がむくんで変わってしまうかもしれないからと…
娘との初対面。口蓋裂なんて気にならない。というよりも
それさえも愛おしかった。
かわいかった。
みんなに見せたかった。
会わせたかった。
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