こちらのページは娘が生きた23日間~生後すぐ今晩が山だと言われた娘の奇跡のようなおはなし~①のつづきです。
娘が生きた23日間~今晩が山だと言われた娘の奇跡のようなおはなし~ (mametsumugi.com)
まだ①を読まれていない方は、よろしければこちらから読んでいただけますと幸いです。
12日目
わたしは母親としてできることが限られていることに、もどかしさを感じていました。
生きてくれているだけでありがたいことなのはわかっていましたが
NICUで娘の隣にいる赤ちゃんを抱いてあやしているのお母さんが羨ましくて仕方ありませんでした。
娘はたくさんのチューブにつながれていたので簡単には抱っこできず
コロナウイルスも頭をよぎり、なかなか思うように触れ合えませんでした。
わたしにできることは搾乳した母乳をもっていくことだけ。
毎日たった15分の面会で母親と呼べるのだろうかと弱気になっていました。
13日目
この日は借りていたゲストハウスの退去日。
なるべく娘の近くにいたかったので病院近くのウィークリーマンションを借りることにしました。
面会では娘の足をなでなでしたり、小さな手を握ったりして娘との時間を過ごし、
面会後病院から車で一時間半ほどの家に一度帰って荷物を整理することに。
娘を出産してから初めて家に帰るので、この間に娘に何かあったらどうしようと心配していましたが
わたしたちの電話が鳴ることはありませんでした。
14日目
この日は夫のお母さんとお父さんが娘に会う日だったので、病院の決まりでわたしたちは面会に行けませんでした。
搾乳しても娘に会えないと思うとむなしくて涙がでました。
お昼ごろ病院から電話があり、娘の呼吸が不安定でおしっこが出にくくなっているというお電話が。
とても心配でしたが、どうすることもできず入居予定のウィークリーマンションに向かいました。
夫とYouTubeで沖縄の動画やディズニーランドの動画を観ながら“娘をいろんなところに連れて行ってあげたいね”と話したのを覚えています。
15日目
この日の娘はびっくりするくらいお肌が黄色くなっていました。
先生のお話によるとホルモンを操る機能が動いていないくて、内臓全体の数値がよくないとのこと。
腸の動きがよくない娘は点滴での治療しかできません。でも、おしっこが出ていないとむくんでいく一方です。
そんな娘を見かねた先生が「むくんでいくのはかわいそうだから…治療どうしますか?」と。
それでも娘の生命力を信じてもう少し頑張ってもらいたいとお願いしました。
病院からの帰り道「親のエゴかな…」とつぶやいたわたしに
「強い子ってみんなに言ってもらってるんやし、もし止めた時に何かあった時の方が後悔するよ」と夫が言いました。
どんどん気持ちが張り詰めてきてうまく感情をコントロールできなくなっていたわたしを夫は必死に支えてくれていたのだと思います。
16日目
娘の肌は黄疸でどんどん黄色くなっていて、貧血もひどく輸血をしてもらっていました。
先生からお話があり、この年から使えるようになった点滴タイプのホルモンのお薬を使って治療をしていただけるとのこと。
できることはしようとしてくれている病院のみなさまのお気持ちがとても伝わってきて、心強かったです。
NICUの看護師さんとお話する機会をもらい、ゆっくりお話してくださいました。
その方は娘の生命力を信じてくださっており「やりたいことは遠慮なく言ってください」と仰ってくださったので
ちょうど前日の夜、徹夜して編んだ名前入りのミサンガをそばに置いていただけるようお願いしました。
チューブシールに絵が描けることも教えてもらい、娘のまわりがすこしでも明るく楽しくなるように絵を描きました。
右下の絵は娘の誕生花である桔梗。浴衣の柄のような渋い絵になってしまって看護師さんに笑われてしまいました。いい思い出です。
看護師さんはわたしたち家族のことも褒めてくださり、コロナ禍で思うように家族を頼れなかったわたしたちにとっては心の支えでした。
17日目
この日の娘は黄疸が少しひいていました。
看護師さんが「抱っこしますか?」と聞いてくださったので、お言葉に甘えて…
たくさんの看護師さんと先生に囲まれての抱っこでしたが、娘の息遣いを感じることができてすごく幸せでした。
18日目
この日はまた先生からお話が。
わたしは先生から「お話があります」と言われるだけでドキドキするようになっていて
いつのまにか先生からのお話を聞く際は、いつも以上に背筋を伸ばして気をしっかり持つことが癖づいていました。
でもこの日は開口一番「本当によく頑張ってくれています。正直驚きでしかないです」といってくださり、
わたしたち夫婦は“やっぱりうちの娘はすごいんだ”と思いました。
その後のおはなしは点滴からの感染症が心配だと。
危険な状態になる可能性のおはなしもされましたが、もう悪い話は聞き流して娘を信じることに決めていました。
この段階では娘を家に連れて帰ることは難しいとも言われましたが“絶対に連れてかえるんだ”と心の中でつぶやいていました。
19日目
この日の娘はまた少し黄疸が出ていましたが、おしっこは少し出ているようでした。
先生が帰り際に遺伝子検査の結果を教えてくださり、
娘の染色体異常は私たち夫婦の遺伝子が要因ではないという結果だということがわかりました。
何が原因であれ、こんなにたくさん抱えた状態で生まれてきてくれた娘には感謝しかありません。
わたしたちを選んでくれて本当にこころから嬉しく思っています。
20日目
この日は遠いところにいる友人が地元に帰るついでにと、コロナ禍でNICUを出入りしているわたしたちを気遣ってお菓子を玄関ドアにかけてくれていました。
心づかいが本当にうれしくて、甘いものが心にしみました。
NICUでは「今日も大きく変わりはありません」と言ってもらえてホッとする自分がいる一方、
看護師さんや先生がいなくても抱っこしたりしたい。という気持ちが沸き上がっていました。
正直この状況に慣れてしまっていて、この状況すら奇跡だったのにそれ以上を求めている自分がいました。
この先も娘は生きてくれていると信じて疑いませんでした。
ウィークリーマンションはいつまで借りようかな…布団もそろそろ干したいな…
旦那の仕事はいつまで休みが取れるかなど、先々のことばかり考えていました。
娘はずっと生きていることを前提に過ごしていたのだと思います。
21日目
この日は敬老の日でした。
事前にネットで頼んでおいた物が届いたと祖母から電話があり、
「大変な時にわたしらのことまで気にかけんでええんよ」と。祖母の声を聞いただけで涙が溢れました。
面会時の娘はむくみがひどくなっていましたが、大きく変わりはないとのこと。
むくみがひどくても、かわいい娘に変わりありませんでした。
22日目
この日の娘は話しかけると腕を上げたり、眉間にしわを寄せたりしてくれました。
いつも通り面会が終わり帰宅。夜ご飯を食べて横になっているとNICUからお電話が。
血圧が徐々に下がってきているので今から来れますか?とのこと。
このような電話は初めてだったので二人とも動揺を隠せずにいました。
車から降りて時間外入口まで走っているのになかなかたどり着かない。
そんな感覚に陥るほどふわふわしていました。
NICUに入ると血圧が37まで下がっていた娘。どんどん下がっていく。
想いが一気にあふれ出す。看護師さんはそっと寄り添ってくれました。
両家の両親も呼ぶことになり、ふたりずつ面会をしてもらいました。
別室を用意していただき両家両親にはそこで待っていてもらうことに。
こんな時、コロナウイルスがなければ…と思いました。
23日目
娘は血圧低下をなんとか持ちこたえてわたしたちは病院で朝を迎えました。両家には一度帰ってもらい
「おふたりも一度帰って休んでください」といわれたので、それくらい安定したのだと思いました。
13時にまた来る約束をして食事を済ませシャワーを浴び終わったころ、NICUからまたお電話が。
今度は心拍数が下がってきているとのこと。慌てて部屋を後にしました。
NICUについてからは、小さな声でたくさんお歌を歌ってあげました。
犬のおまわりさんを歌うと心拍数が上がる不思議なことも起きました。
また娘が少し落ち着いたころ、前日から一睡もできていなかったわたしたちを気遣って先生が「一度帰って少し休んできてください」とおっしゃってくださり、22時に来る約束をして病院を後にしました。
「また22時に来るから心拍数キープだよ」と話しかけると、すごい目力でこちらを見ていました。
“だいじょうぶにきまってるでしょ”と言っていたのかな。
この後のことは私の日記に書かれていないのであやふやな記憶ですが、
この後NICUに行くと娘はあまり良い状態ではなく、両家の両親を呼ぶことになりました。
コロナ禍の制限があるため、来てもらってすぐに面会するか、いよいよの時に面会するかどちらかを選んでくださいと言われ
残酷な選択でしたが、その時が来ないことを願う意味も込めていよいよの時に面会してもらうことにしました。
先生は「明け方の4時ころがその時だと思います」とおっしゃられ
「お父さんとお母さんも交互に休みを取ってくださいね」と言ってくださったので夫に先に休んでもらうことにしました。
娘と二人の時間が取れたのは、この時が初めてでした。
コロナ禍でこんなに長い時間娘を見つめていられたのも初めてだったので、娘とのこの時間は一生忘れないと思います。
小さな声でたくさんのお歌を歌ってあげました。
NICUではゆりかごのうたがオルゴールでかかっており、いまでもこの歌を聞くとあの時間を思い出します。
眉間を撫でてあげるとくすぐったそうに眉をひそめるのがかわいくて、なんどもなんども撫でていました。
幸せでもあり、不安もある何とも言えない時間を過ごしていると、突然眉間を撫でてあげても娘が反応しなくなりました。
数値が危険になったら看護師さんが先生を呼ぶという話を聞いていたのでまさかとは思いましたが、
看護師さんを呼ぼうか迷っていると急に看護師さんがバタバタとされはじめ、わたしは察しました。
旦那に連絡しようとその場を離れようとすると「お母さんはいてあげて!」と強く言われ、
“ああ、娘は旅立ってしまったのだ”その時悟りました。
先生が慌てて入ってきて、娘を確認すると申し訳なさそうに
「お母さん、すみません。僕が思っているより早くて…」と。
「午前2時3分…」なんておっしゃったか忘れてしまいました。
待たせていた両親も、夫も呼ぶことができず、ひとりでこの瞬間を迎えたことを受け入れられずにいました。
でも先生や看護師さんを責めるつもりは一切ありません。
夫や両親には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、娘が静かに旅立ちたかったのだと思っています。
わたしを母親にしてくれて、娘には感謝しかありません。
今も近くで見守ってくれていると信じています。
以上で娘の生きた23日間のおはなしをおわります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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